20th プロジェクト
『片山流マネジメント論』
片山皓(Hiroshi Katayama)プロジェクト
~野球を通じて『生きるチカラ』を伝えたい~野球は我が人生なり。~
経営とは戦略と組織管理がすべてである。
「価値ある1勝を目指して」
皆様、はじめまして。ヒットテック株式会社 代表取締役の片山皓と申します。
私自身、経営者として野球から学ぶこと、野球指導者として企業経営から学ぶこと、
双方の問題点と価値観が『学ぶチカラ』、『生きるチカラ』となり、後継者育成の夢を育ててくれました。
Aggressive(気迫)・Fundamental(基本)・Technic(技術)
『A・F・T』とはAggressive(気迫)・Fundamental(基本)・Technic(技術)の頭文字を取った言葉で、
1990年(平成2年)に大洋ホエールズの監督に就任された須藤豊氏が『A・F・T野球』を提唱され、
低迷していたチームを7年ぶりにAクラスに導きました。
当時、打撃コーチを務められた竹之内雅史氏を通じて、『A・F・T野球』を学ばせていただき、
経営者としても、野球指導者としても、私の理念として今もなお心に根付いております。
Aggressive(気迫)は、向上心、素直な心、闘争心と捉えております。
Fundamental(基本)は、基本、基礎、基盤の大切さを知り、応用力を養います。
Technic(技術)は、人生を賭けて磨き上げる己の武器であり、プロフェッショナルを目指します。
歩んだ道を今一度見返し、令和の時代に合った『A・F・T』を追い求め、伝えていきたいと思います。
大阪ホークスドリーム総監督
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片山皓物語
幼少~学生時代
中学時代まで
大阪府堺市に生まれた。幼少期より運動神経には恵まれ、小学校1年生より野球三昧の日々を過ごした。
中学校は、上野芝中学校に入学、その後新設された八田荘中学校に1期生として転校し、野球部の副主将を務めた。性格は、子どもの頃より、リーダー的な存在で、相手の言い分を全部聞いてから、自分の言い分を話すという習慣が身についていた。集団で叱られているときでも、まずは謝罪して相手の話を全て受け入れ、それに対して何か話したいことがあれば、その後に日にちを変えてでも話をするという性格であった。特に、何らかの課題が生じたときの対処がうまかったように思う。そのことが大学時代のキャプテン、そして現在の学生・社会人野球部の指導者につながっているのだと振り返る。
高校時代
高校は、当時の大阪府下の強豪校であった北陽高校(現関大北陽高校)に進学した。野球部の部員数は全国トップクラスの約180人を誇り、早朝から深夜までの厳しい部活練習で3年間残ることが1番の使命と思いながら練習に励んだ。その結果、最終3年生30人弱に残り、背番号1を着けて挑んだ大会もある。ポジションはピッチャーであったが、試合に出してもらうために内野手としても練習に励んだ、チームの成績は、高校1年生の夏の大会は甲子園に出場、それ以降は甲子園出場には恵まれなかったが、常時、大阪府大会のベスト4に進出していた。同級生には、中日ドラゴンズに入団し投手として新人王を獲得した森田幸一氏もおり、共に切磋琢磨しながら汗を流した。
高校3年生の夏の大会終了後、大学で野球を続けたいと強く思い、監督推薦がない中、名古屋商科大学のセレクションを受験して、合格、そして進学することとなった。
大学時代
当時の『愛知六大学リーグ』(現 愛知大学野球連盟)加盟の名古屋商科大学に「野球セレクション」で合格し、入学することとなる。甲子園経験者も多数いる中、選手としての実力だけではなく、キャプテン、マネジメント力の養成も兼ねる流れで、大学1年生の秋季リーグでは、中日、阪神で活躍された大豊泰昭氏とともに1年生でベンチ入りした。大学デビュー初戦は、立命館大学との練習試合であったが、ヤクルトスワローズで捕手として活躍され、引退後に監督も経験された古田敦也氏から代走として盗塁を決めることができたことは、今でもいい思い出となっている。2年生の春季リーグ以降は準レギュラーとしてベンチ入りを果たし、2つ上には中日と広島で活躍された音重鎮先輩もおられ、名古屋商科大学野球部の歴史の中で最も強く、1部リーグで優勝を狙える実力を備えていた。在籍4年間で、最も「明治神宮野球大会」出場に近づいた2年生の秋季リーグでは、勝った方が優勝という愛知工業大学との最終戦で、9回表まで7対4でリードしていたが、その裏に、高校の夏の全国大会で優勝した報徳学園のメンバーの1人であった石田選手に代打逆転サヨナラ満塁ホームランを打たれて、劇的なサヨナラ負けを喫し、神宮大会出場は果たせなかった。そのときの相手チームの先発投手は、日本ハムで活躍された西崎幸広氏であった。同年秋の第17回神宮大会に出場した愛知工業大学は、東京六大学リーグ等の強豪リーグの優勝大学を抑え、全国優勝を果たした。
大学3年生の秋季リーグ後、キャプテンに任命された。そのときに監督から、「将来、キャプテンにするつもりで合格させた」と聞かされた。高校時代、無名の投手であった自分に対し、大きな期待をかけていただいたことに対し、『信頼に応える意気込み』のようなものが芽生えた。以後、この『キャプテン』としての経験が指導者に必要な『組織マネジメント』の礎となったことは言うまでもない。
大豊泰昭氏とのエピソード
キャプテン就任直後の冬、ホームベース上で殴り合いの派手なケンカをした。ケンカの原因は『組織か個人か』というお互いの立場の違いからであった。監督が2人の言い分を聞き、私としては「自分が4番を打ちたいから4番を打つのではなく、監督が決めるから4番を打てる。それと同じように、チーム練習はキャプテンの俺が決めるからチーム練習なのであって、練習内容の相談は受け入れるが、決まった練習メニューに対して練習拒否をすることはお前のわがままだ。俺の練習メニューについてこれないのなら、グラウンドから出て1人で練習してくれ。そのかわり、誰もお前のことを応援しないぞ。ホームランを打っても誰も喜ばないぞ。」と話した。大豊氏の言い分は、「俺はプロ野球に入るためにここで野球をしているこんな練習では満足できない。」というものであった。今、振り返ると、キャプテンとして『組織の正義』としては間違っていないとは思いつつも、プロ野球で活躍する為にはそのぐらいの気持ちがないと通用しないんだろうと、大豊氏自身のプロ野球で残した結果から『個人の正義』に対して理解できるようになった。
その時のエピソード以来、本気でこぶしで気持ちをぶつけ合ったことにより、大豊氏と気持ちが分かり合えるようになり、人生の友として以後、付き合うこととなる。
そんなエピソードから始まり、野球三昧の日々、そして、大学最後のリーグ戦に突入。当時の大学の通算ホームラン記録は、法政大学出身で阪神と西武で活躍された田淵幸一氏の22本であり、大豊氏が4年生の秋季リーグで追いつき、タイ記録からなかなかホームランを打てなかった。しかし、最終節で新記録となる23号ホームランが出たときには、双方のチームが大歓喜に包まれ、私たちは涙を流して仲間と抱き合った。この時、チームはリーグ戦2位が確定で全国大会出場は叶わなかった。しかし、チーム全員が大豊氏の日本記録更新を支え、本気でその達成を喜んだ。まさに、『One for all All for one』の精神を体現できた瞬間であった。
大学卒業後も大豊氏はプロ野球の世界で活躍するわけであるが、良好な関係が続き、彼が大阪に来たときには、チームメイトみんなで彼との旧交を温め、食事会等を楽しんだ。
また、阪神に移籍後、野村克也監督との確執がスポーツ紙上を賑わせたとき、逆境にあった大豊氏の立場を弁護する思いで「阪神の選手に応援メッセージ」の募集に投稿し、スポーツ新聞にも掲載されたが、改めてプロスポーツ界の厳しさを感じさせられる出来事でもあった。
また、引退後、彼が病に倒れたとき、みんなで彼を見舞って近況を報告し合い、2015年に亡くなったときのお葬式の出席者は、大学野球部の同級生、星野仙一監督とコーチ、そして親戚だけであった。奥様のお話では、大豊氏は「俺の棺は大学同期生に頼め」とまで話していたと聞かされ、別れは非常に悲しく残念であったが、大豊氏と私やチームメイトとのこれまでのつき合いは間違っていなかったのだと、改めて思うことができた。
会社勤務時代
① 『生野金属株式会社』(1988年~1991年)
大学卒業後は地元である大阪に帰ることを考えており、監督が証券会社を紹介してくれていたが、実家の父親が鉄鋼業を営んでいたこともあり、鉄鋼関係の仕事も探した。たまたま、リクルートの就職雑誌を眺めていたら実家近くの金属加工会社があるということで就職面接を受けることとなった。面接の翌日に会長より「ピカイチなので、ぜひ会社に来て欲しい」との電話をいただいた。監督に相談すると「それだけ会長が熱意を持って来てくれというのであれば是非ともその会社に行くべきだ」との後押しを受け、就職した。
入社まもない頃、新しい挑戦をさせていただく機会に恵まれる。それは、事業拡大により、「紙管」を作る業務で、その部門の担当を全て任されることとなった。結果として退職までの4年間で、工場内に新規ライン、工程を設け、営業活動も行い、これまでの金属製の缶と肩を並べるほどの業績を上げることができ、楽しい勤務経験を積ませていただくことができた。
② 『早川製作所』(1991年~2012年)
鉄鋼業を営んでいた祖父が亡くなった翌年、会社勤務の4年間の経験で自信があったのと、父親を助けたいとの思いもあったので、父親の会社に就職する決心をした。しかし、父親の退職をきっかけに親族で「のれん分け」を行うことに合意し、結果として早川製作所を分社することとなる。その間、2012年まで21年間勤めたこととなり、その後、起業家の道を歩むこととなった。
起業~現在
起業家として
①『ヒットプロダクト』(2012年~2022年)
2012年より、早川製作所を分社する形で会社を設立した。当時、2000年より続けていた野球の指導者を継続できる環境整備を行いながら、父親の代までの取引先だけではなく、新たな取引先の開拓にも努めた。しかし、自分の人生の中心にある『野球』に対する強い思いが勝り、社長業よりも野球の指導に打ち込める環境を追求し続けた。結果的に、『大学野球』『高校野球』『社会人野球』の指導者として、人間教育を中心とした『教育者』としての道に進むこととなる。
ヒットプロダクト社の『三本の柱』
1
数年前、北陸新幹線が新潟方面の地震で、線路の変形が原因の事故があった。弊社で転倒防止装置の開発に取り組んで製造・商品化し、令和元年よりJR東日本が設置した。
2
高速道路の橋げたの梁の部分に使われる、穴の位置を合わせてボルトを通すための工具を20年前に製造、商品化している。
3
トンネル手前の法面の部分や、崖の斜面等に崖崩れが起きないように空ける穴に、鉄筋(ネジ式)を埋め込む工法を施行している。
②『ヒットテック株式会社』(2022年~現在)
2022年になり、野球の指導者として活動する中で、今度は本業の仕事において、大きなチャンスに遭遇。その事により、『ヒットプロダクト』では経験できないような仕事をしたいと考えるようになった。内容は親会社の傘下の子会社としての再出発という形態を選択するわけであるが、これまでは、同じ製造業でも設計図通りに要求された製品を製造することを第一に考えていたし、また求められてもいたが、これからは一方通行ではなく、双方向的にこちら側からの提案も遠慮なく行うことが出来きる点に魅力を感じている。そして、若い親会社の経営者の価値観と自らの経験をコラボレーションすることにより、新たな価値を創造していけることも、今回、野球以外の新たな『夢』に挑戦していきたいという気持ちになった理由の一つである。
残された人生の中で限られた時間と資金を活用し、お互いが利益を得る最善の道を仲間と一緒に模索する形を追求していきたいと思う。野球以外に人生の夢を改めて持てたことに対し、その環境と支えていただいている全ての皆様に改めて感謝したい。
野球部指導者として
①羽衣国際大学 硬式野球部コーチ(2004年~2010年)
羽衣国際大学が、短大から現在の4年制大学に移行するとき、硬式野球部も新設するということで監督募集があった。元阪神タイガースの竹之内雅史氏が選ばれ、野球部新設の煩瑣な手続きのサポートをさせていただく中で、竹之内氏からコーチ就任の依頼を受け、受諾した。
コーチとしての最終年、竹之内監督が成績不振の責任を取る形で退任され、次期監督を推されたが、竹之内氏とともにチームを立ち上げたこともあり、私もコーチを辞任することにした。
②大阪府立農芸高校 硬式野球部 監督(2010年11月~2017年7月)
大学野球部のコーチ辞任後まもなく、大阪府立農芸高校の野球部監督のお誘いを受け、現在まで続いている監督としての人生を歩むこととなった。高校になって初めて野球を始める部員もいるようなチームであったが、大学野球部のコーチ時代、竹之内監督が一人ひとりに合わせて、子どもたちの日々の成長を楽しみながら指導されていた姿から指導者に必要な自分なりの『野球哲学(人生哲学)』を磨くこととなる。
大会での成績だけで評価するのではなくそのレベルに応じた『目標』を持たせ、「毎日の成長」を中心に『努力』や『時間の使い方』や『課題に対する問題意識』や『解決方法』を、自ら導けるように伝えていくことを目的とした指導を志した。その結果、2年生、3年生となっていくに従い、子どもたちは勝ち負けよりも、チームや自分自身の成長に喜びを見出すようになり、全ての立ち振る舞いが見本となるほど成長し、中学校の野球指導者の方々からも、「農芸高校の試合を見に行くように」との手紙や電話をいただくこともあった。
子供達と一緒に汗をかいたこの時期から、野球人として『価値ある1勝を目指して』という言葉を大切にできる選手を育てていきたいと思うと同時に、野球を通じて『生きるチカラ』を伝えたいと強く思うようになった。
③大阪ホークスドリーム女子硬式野球部監督(2017年8月~ )
ご縁があって、2009年創部で名球会会員、プロ野球南海ホークス、オリックスブルーウェーブ、ダイエーホークス等でご活躍され、プロ野球歴代ホームラン数第3位の実績を残された門田博光氏より、総監督として関わっておられた大阪ホークスドリームの関連チームの女子野球部監督就任の打診を受けることとなり、初の社会人チームの監督に就任。
④大阪ホークスドリーム女子硬式野球部監督(2017年8月~ )
大阪ホークスドリーム女子ソフトボール部監督[兼任](2017年12月~2020年12月 )
大阪ホークスドリーム女子硬式野球部監督就任と同時期に女子ソフトボール部監督に就任。
【就任後の3年間の主な成績】
・第58回全日本実業団女子ソフトボール選手権大会では全国ベスト8
・第59回全日本実業団女子ソフトボール選手権大会では全国ベスト16
・第60回全日本実業団女子ソフトボール選手権大会 中止(新型コロナ)
⑤大阪ホークスドリーム総監督(2018年12月~ )
2017年に大阪ホークスドリーム女子硬式野球部、女子ソフトボール部監督就任後、2018年12月には2019年度からの男子硬式野球部監督兼大阪ホークスドリーム総監督就任の依頼があり受諾することとなる。名誉監督としてプロ野球南海ホークスでご活躍された小池兼司氏と連携を取りながら、チームの再建に力を注ぐこととなった。
2021年のオールスター大会である大阪、京都、兵庫のセンバツ監督として出場し、大阪大会で優勝している。
総監督としての方針は「価値ある1勝を目指して」
一人一人の選手の想いを理解しながら監督として野球人「片山皓」として選手の力を一つに纏め、選手たちの野球や人生において『意義のある結果』を導いていきたいと考えている。また、チームの世代交代を考えていく上で、次の指導者を育てることにも力を注いでいきたいと考えている。
『大阪ホークスドリーム』
総監督として
大阪ホークスドリームは現在、硬式野球部と女子ソフトボール部が活躍中です。チームの存在意義、活動価値を高めるために、活動指針を5つ掲げ地道な努力を続けています。
これからも、『価値ある勝利』を目標に、総監督としての役割を果たしていこうと思います。
目標は社会人野球として全国大会、都市対抗、クラブ選手権、などの三大大会に挑戦し、優勝することである。
大阪ホークスドリーム活動指針
Ⅰ.社会に貢献、チームに貢献できる人材の育成
Ⅱ.愛されるチームの構築
Ⅲ.競技力向上の努力
Ⅳ.地域社会の発展に寄与するチーム作り
Ⅴ.新たな野球・ソフトボール文化を創造する
『ヒットテック株式会社』
代表取締役として
前身の『ヒットプロダクト』の時代より、祖父、父親の代の引継ぎの業務・事業も含めて<会社の『三本の柱』>を中心に、誠実に本業に励んでいた。令和の時代にふさわしい取り組み方を模索していた折、2022年4月、私の考え方に同意と励ましをくださった現在の親会社の社長のもと、永年の夢である「法人化」を果たすことができた。
今は不安もありながらも、「産業革命」的なことが起こりそうでワクワクしている。若い方のやり方・考え方を積極的に取り入れ、活用していくことで、昭和・平成の時代に通用したやり方・考え方だけでなく、令和の時代にふさわしい形を模索し、今、ステークホルダーの皆様に必要とされる仕事と会社の在り方を、追求していきたいと考えている。
これまでは主に与えられた仕事と設計図に従い、早さと正確さを追求していた。しかしこれからは、親会社とは製品の企画段階より提案を突き詰め合いながら、お互いに最大の利益が出るような製品を作ることを目指していきたいと考えている。その結果、安価で魅力的な商品を提供することで社会貢献させていただき、「三方良し」の会社経営につなげていきたいと思う。
ビジョンをしっかりと掲げ、これからの時代に合った企業に育て上げたいと思う。
これからの人生における
夢・目標・ビジョンについて
会社経営や野球指導に共通することであるが、「この人に任せたらいい」という安心感や安定感を持った後継者の育成に力を注ぎたいと考えている。
また、これまで十分なことをして上げられなかった家族に対しては、今後はしっかりと向き合って家族第一の人生を歩んでいきたいと考えている。
『片山流マネジメント論』とは。
経営とは、マネジメントである。経営学は、「組織論」と「戦略論」で成り立つ。そのため、この両輪で成果を上げていく必要がある。組織をどのように導き、結果を残していくのか。これが経営の本質である。
『片山流マネジメント論』を「組織論」的に考えると、人の心をしっかりと受け止めて、個々にあったモチベーションをどれだけ引き出すことができるのかということが、大切だと思う。結果に関しては、そのチームや組織に応じた目標設定を行い、その目標に挑戦することにより、個々の選手や社員の能力を最大限に引き出す。大切なことは、その目標設定に向け、個々の努力やモチベーションをいかにして高めていくかである。「価値ある1勝を目指して」とは、「優勝」を目指すことも大切であるが、それ以上に、チームを構成する全員が全員で悔いなく力を出し切る。そして、全員で喜びを感じ合うことで一体感を作りながら成長し、チーム力を上げ、個々の人間力を育んでいくことである。
「戦略論」的には、各選手の個性をしっかりと把握し、個性が最大限に発揮できるように戦略を立て、結果に結びつけていくことが、「価値ある1勝」のために必要である。そして「価値ある1勝」の追求を目標設定とした上で、基本に忠実に、個性が生きていくような戦略を立てていく。
『片山流マネジメント論』とは、一言で言うなら「教育」である。選手や社員が自分たちの役割を理解するためには、しっかりとした「教育」が根底にあり、各々が「己を知り、己に克つ」ために、心を鍛えることが、『片山流マネジメント論』の肝の部分である。
Profile
片山 皓
誕生日:昭和41年3月30日 血液型:A型
大阪府堺市出身 大阪府和泉市在住
昭和59年3月
私立 北陽高等学校 卒業
昭和63年3月
名古屋商科大学 商学部 産業経営学科 卒業
職歴
・生野金属株式会社(1988年~1991年)
・㈱早川製作所(1991年~2012年)
・ヒットプロダクト 代表(2012年~2022年)
・ヒットテック株式会社 代表取締役(2022年~現在)
活動実績(経歴・指導歴)
野球・ソフトボール(高校~大学~社会人)の指導者として活躍
・上野芝中学校~八田荘中学(1期生)卒(野球部・副主将)
・北陽高校卒(硬式野球部):現、関大北陽高校
・名古屋商科大学 商学部 産業経営学科卒(硬式野球部 主将)
・羽衣国際大学 硬式野球部 コーチ(2004年春~2010年秋)
・大阪府立農芸高校硬式野球部 監督 (2010年11月~2017年7月)
・大阪府教育委員会学校支援社会人指導者(運動部活動外部指導者)
(2011年5月~2017年2月)
・大阪ホークスドリーム女子硬式野球部監督(2017年8月~)
・大阪ホークスドリーム女子ソフトボール部監督[兼任](2017年12月~)
・大阪ホークスドリーム男子硬式野球部総監督兼監督(2018年12月~)
・大阪府教育委員会 表彰
(2017年11月)
大阪府立農芸高校硬式野球部監督退任後に表彰していただきました。
詳細はこちらをご覧ください
経歴・指導歴趣味
・仕事
・野球
お気に入りのアイテム
『甲子園の心を求めて』(佐藤道輔著)
名言が散りばめられている訳ではないのですが、「汗と涙と泥にまみれて」「奉仕の気持ち、自己犠牲の気持ちを忘れない」等、厳しい練習を耐え抜く高校球児たちの豊富な経験談に溢れており、私のバイブルとなっております。野球指導者になる方には、よく読まれております。
座右の銘
“北風の音に春の足音の近付きを聞き分ける
そんな耳を持ちたい
美女の舞踏に骸骨の動きを見定める
そんな目を持ちたい
我を失うほどの窮境におかれても
「はい」と「いいえ」は決して間違えて発音しない
そんな口を持ちたい”
(むのたけじ 「詩集たいまつ」より)
片山皓へのアクセス・お問い合わせについて
〒593-8311 大阪府堺市西区上96番地(ヒットテック株式会社)
TEL.072-349-4747 FAX.072-349-4748 MOBILE: 090-7967-3085
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